経済学が法則的把握を目指す科学であるという考え方が力を失いつつあることに関連して、もう一つの論点が存在している。それは、(①)そもそも経済学が客観的な科学たりうるのかという論点である。そして、この論点は、経済学に限らず、社会科学一般にかかわるものでもある。
経済学が一つの分野として確立するようになった背景には、市場経済が急速に発展するにつれて、市場がそれ自身で独自の作用の仕方を示す領域だという意識が次第に強くなってきたことがある。(②)市場で観察される現象は客観的なものであり、われわれは自然科学と同じ仕方で、そこに共通して働く法則を把握できると発想するようになるのも領けるだろう。そして、(③)経済学が物理学とのアナロジーでとらえられるようになったのも、こうした思考の流れのなかで自然と理解できよう。
しかし、それは本当だろうか。まずは、社会科学の対象と自然科学の対象が異なる。哲学者ジョン・サール (1932~)は客観的/主観的という二分法に関して、客観的/主観的ということの意味の領域を、存在論的に客観的/主観的ということと、認識論的に客観的/主観的ということの二つに分け、区別して考えるべきだと主張している。
存在論的というのは「存在の様式」に関係していることを意味する。存在論的に客観的というのは、観察者とは独立に存在している事態を示し、存在論的に主観的というのは、観察者の主観によってのみ存在している事態を示す。これに対して、認識論的ということは、言明に関する分類である。認識論的に客観的というのは、その真偽が観察者の主観から独立した存在であることを意味し、認識論的に主観的というのは、その真偽が観察者の態度、好み、評価によって変ることを意味する。
サールによれば、素粒子、液体、化学物質などは存在論的に客観的であり、これに対する命题は認識論的に客観的だが、こうしたことを論じるのが自然科学である。では、存在論的に主観的なものについてはどうなろうか。サールは、貨幣、財産、国家、社会などは存在論的に主観的であるが、こうしたものに対しても(④)認識論的に客観的な命題を述べることができると言う。それが社会科学である。
このように見てくると、存在論的に主観的なものを対象とする社会科学は、やはり重要な点で存在論的に客観的なものを対象とする自然科学とは異なるのではないだろうか。
存在論的に主観的なカテゴリは、われわれが社会のなかで構成しているカテゴリである。ある概念が社会的に構成されているということには、われわれがその概念を一定の仕方で理解し、それに基ついて社会的行い、それがさらにもとの概念の妥当性を強化するといったプロセスが作用していることを意味する。ここでは、存在論的に主観的な概念を人間が作り上げて、それが人間の行為やそれによって形作られる(⑤)外界を規定していく方向性。すかわち、(⑥)志向作用の方向性をもつのである。
このような、社会科学・人間科学とわれわれの社会生活の間にある(⑦)相互に構成的な関係のことを哲学者のイアン・ハッキングはループ効果と呼んでいるが、近年、社会学者、経済学者のなかでは[逐行性(performativity)]という言葉で、このような人間の概念が行為などを通して世界に影響を与えていく事態を捉えようとしている。
このように考えると、実は、経済学のような社会科学もまた、それ独自の概念構成を作りあげることで、それが記述の対象としているわれわれの社会的実践に対して(⑧)逐行的な影響を与えていることがわかる。社会科学のなかで客観的な言明を行うことが可能であるにしても、社会科学は同時に、概念構成を通して社会に対して作用しているので、(⑨)単にあるがままに存在している現象に対峙しているわけではないのである。
(滝潭弘和著『现代経济学・終章・経済学の現在とこれから』より書き换えあり)
注1:アナロジー/類以。類推、類比
2:ループ/輪や輪の形をしたもののこと。あるいは物事が繰り返すことの比喻
71.①そもそも経済学が客観的な科学たりうるのかは経済学に対して何を言いたいのか。